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『戦場で腰が抜ける男は、100人のうち、だいたい2人』
・・・長宗我部元親・・・

四国の覇者・長宗我部元親は、1539年生まれ。
織田信長が中央を制圧している間に、四国全土を手中にした人物である。
この言葉は、長い戦いの日々を送った元親一流の経験則から出た言葉だが、
実は彼、若い頃は「姫若子」などと呼ばれ、馬鹿にされていた。
背が高く色白で、外に出たがらず、しかも物腰が女子のようであったことから、
家臣からは将来を心配されていた。
優しく繊細な元親は、あるとき坊主に
「臆病とは性格ではなく、胸の病だ」と諭されると、
「なるほど病なら、必要な手当てをすれば必ず克服できるぞ」
と自らを奮い立たせた。初陣は22歳と、当時としては遅い部類。
ところが、この戦いで家中の評価は一変する。
槍の持ち方も知らず、家臣に
「敵の目を突かれよ。無理な場合は目を突く心持ちで突かれよ!」
とアドバイスを受けると突如として敵に突撃し、
襲いかかる敵を激しい槍さばきで打ち倒したのだ。さらに、
「俺は絶対に一歩も引かぬっ!真の武士は命より、名を惜しむものぞ!」
と大声をあげた。
これには敵はもちろん、味方も驚愕した。
元親は見事この激戦を制し、
四国の王への階段を一気に駆け上っていくことになる。
 

『大変困難な戦いなら、非常識な手段で戦ってこそ勝ち目をだせる!』
・・・高坂昌信・・・

武田四天王のひとり、高坂昌信は1527年生まれ。
小姓として武田信玄に寵愛され、「俺が本当に寝たいのはお前だけ」と
熱いラブレターを送られる程の美貌の持ち主だった。
見てくれだけでなく、才知も一流で、
甲州流軍学の書『甲陽軍艦』の原作者は、昌信だとされている。
二つ名は「逃げ弾正」だが、これは逃げ足が速いというよりは、
むしろ無用な戦いを避ける能力を示している。
信玄が死ぬと、息子の勝頼が跡を継いだ。勝頼は父親の遺言を守らず、
猛烈に攻めまくり、織田家の18の城を次々と撃破。
やがて信玄も落とせなかった要害・高天神城を手中に収めると、
勝頼は勝利の大宴会を開いた。これが油断となったのか、
高天神城を開城した翌年の1575年、勝頼は「長篠の戦い」で
信長・家康連合軍を相手に大惨敗を喫する。
参戦しなかった昌信は、戦後、本体の戦術を知って驚愕した。
勝頼は大軍を相手に、小部隊を代わる代わる突撃させ、鉄砲で各個撃破されていたのだ。
昌信はこの言葉で、勝頼を強く諭した。
「大敵が相手なら、全軍一致で大きく突撃すべき。
無二無三に攻め、前の列が撃ち倒されても、友の死体を踏み越え、
相手の陣地に雪崩込む。さすれば武田軍の必勝であった。惜しい」
それから3年後、昌信は武田家滅亡を目の当たりにすることなく、52歳であの世に逃げた。

『主人は無理を言うなるものと知れ』
・・・豊臣秀吉(天下人)・・・

貧しい身分から織田信長の家臣となり、ライバルとの競争を勝ち抜き、
公家最高位の関白の位まで射止め、世の繁栄を極めた豊臣秀吉。
これほどの立身出世は、日本史上類を見ない。
秀吉は1537年、尾張(愛知県)生まれ。
”人たらし”と呼ばれる程、人間的魅力に溢れており、派手好きな性格だった。
天下を制すると、ピカピカに光り輝く黄金の茶室で諸大名を驚かせ、
国内でいち早くヴァイオリンの演奏会に出席するなど、
弾ける好奇心と景気の良さは、死後も語り継がれた。
例えば、1589年、莫大な金銀財宝を集めた秀吉は、並みいる大名を前に、
金をバラ撒いた。総額なんと36万5000両。(292億円相当)
家康に金銀合わせ約1万両、前田利家・毛利元就・上杉景勝らに2万両。
弟に2万両。甥の秀次には銀1万両と大盤振舞いだ。
この言葉は、秀吉が日頃から近臣に語っていた処世術のひとつ。
なるほど秀吉は、信長のいかなる”無茶ぶり”にも全身全霊で応じてきた。
美濃(岐阜県)征伐での大役、「金ヶ崎の退き口」でのしんがり、
強敵・毛利と対峙した中国征伐。
あらゆる「無理」を掻い潜ってきたから、秀吉の天下があるのだ。
1596年、7月夜、秀吉の居城・伏見城を直下型大地震が急襲した。
天守閣は淀川へ崩れ落ち、御殿は潰れてしまった。
 
さしもの秀吉も弱気な一言。
「新しい伏見城は、地震のない所に建てさせよう・・・」
 
世の頂点を極めた天下人といえども、所詮は「天」の「下」。
最後まで主人に無理を言われ続けたのだった。

『威勢がよく勇気ある者は、驚くような働きをする。が、・・・』
・・・加藤嘉明・・・

加藤嘉明は1563年生まれ。ドン底から40万石を手に入れた実力派武将である。
松平家家臣の子として生まれるものの、後に父が離反。
放浪生活を余儀なくされ、馬の仲買人の下働きをするなどして生き抜いた。
秀吉がその才能を見込んで家来にすると、見事にチャンスをつかみ
「賤ヶ岳の戦い」で七本槍の一人となる武功をあげた。
もともと陸戦を得意としていた嘉明は淡路国(兵庫県・淡路島)を手に入れてからは
海上戦にも力を発揮し、朝鮮出兵では、朝鮮水軍を壊滅させる活躍をみせた。
そんな嘉明が、日頃から部下に話していた言葉がこれだ。
「威勢がよく勇気ある者は、驚くような働きをする。が、ただそれだけのこと。
本当の武功を立てるのは、律儀で誠実な者である。」
彼は、決して身勝手な蛮勇を認めない。
「夜討ちの大将」を自称していた豪傑の家臣・塙団右衛門は、
嘉明に叱責され、たまらず加藤家を飛び出している。
また、人に媚びたり、ゴマをする人間も徹底的に避けた。
そのような人物は、一時は抜群の成果を挙げるかもしれないが、
決して信用するなという。
なぜなら、自分の利益を得るために必ず人を裏切るのが、この手の武将だからだ。
嘉明は、同じく秀吉に可愛がられていた石田三成とはソリが合わず
「関ヶ原の戦い」では徳川家康についた。
これが慧眼であり、嘉明は三代将軍・家光の時代まで生き残り、
ついには会津(福島県)40万石を手中に収めたのだ。
 

『刀剣短くば、一歩進めて長くすべし』
・・・柳生宗矩・・・

柳生宗矩は、1571年生まれ。柳生新陰流の開祖・宗厳の子である。
徳川将軍家の兵法指南役として知られ、「大坂夏の陣」では
徳川秀忠を襲った豊臣方の武者7人を、瞬時に斬り倒したという逸話が残っている。
とはいえ、宗矩が人を斬るのは珍しいこと。
人を生かす正しい剣、いわゆる「活人剣」を志向したからだ。
宗矩が「兵法家伝書」の中で残しているのが、この言葉だ。
意味は「手にする武器が劣っているなら、身体を工夫して補えば良い」ということ。
刀に頼るばかりではなく、政略にも長けた宗矩らしい実践例も残っている。
大剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)が、天下一と謳われた宗矩に勝負を挑んできた時のこと。
卜伝は奥に案内されたものの、誰もいない。
それでも待っていると、突然襖が開け放たれ、宗矩が木刀で打ちかかってきた。
卜伝は瞬時に刀の柄で跳ね返すと「ふざけるな!」と宗矩をなじる。
宗矩は言う。
「卜伝殿。まだ修行が足りませんぞ。
もし私をここで倒しても、当家のものが無傷で帰すとは思えません。
死んで天下一と言われても、どうにもなりますまい。」
この時宗矩は木刀という劣った武器で、天下一を狙う卜伝を戦わずして屈服させた。
宗矩は続ける。
「術はお見事。だが、大切なのは心法。それが何とも惜しい」と。

『掟は少ないほどよい』
・・・北条氏康・・・

北条氏康は、1515年生まれ。下克上の代名詞ともいえる活躍で、
関東に覇を唱えた早雲は、祖父にあたる。
この三代目の治世で後北条氏の隆盛は頂点に達した。
氏康は関東を狙う武田信玄、上杉謙信ら戦国の英雄達にもひけをとらない人物だ。
敵が押し寄せても、自慢の小田原城で何度も跳ね返してみせた。
戦闘が始まれば決して退かず、体中に刀傷があったが、
背中にはただの一つもなかったというから驚きである。
織田信長の「桶狭間の戦い」、毛利元就の「厳島の戦い」と並んで
「戦国三大奇襲」のひとつに数えられる「河越夜戦」では前線に立って戦い
山内上杉・扇谷上杉・足利古河公方の連合軍8万を、8千で破る大金星をあげた。
ある日、氏康が小田原の城下町を歩いていると、やけに掟を書いた立て札が目立つ。
家臣に尋ねると、悪人が増えているから取り締まりを強化しているという。
すると氏康は、すかさずこの言葉を返した。大きな考え違いであると叱ったのだ。
「民が満たされていない証拠である。
不満のはけ口がないから、悪事に走るのだ。
掟を次々に増やして、なんになる。
悪人のせいにするのではなく、自分たちの政治に至らない点はないのか、
常に自問自答するべきであり、それが人の上に立つ者の心得である」
 
豊臣秀吉が天下統一をするまで、
関東が一貫して北条氏のものだったのも頷けるエピソードである。
 

『武士は剛勇だけでは駄目だ。臆病で味付けする必要がある。』
・・・馬場信春・・・

馬場信春は1514年生まれの武田家家臣。
信虎、信玄、勝頼と実に3代にわたって武田家を支えた功臣である。
歴史に残る「川中島の戦い」では、妻女山から上杉謙信を急襲し、
「三方ヶ原の戦い」では徳川家康を浜松城に追い詰めるなど、出陣すれば連戦連勝。
数々の激戦に参陣しながら手傷ひとつ負わなかった。
その”不死身の鬼”が、若武者たちに戦を勝ち抜く秘訣を問われ語った言葉がこれだ。
千変万化する戦場では、素早い判断が求められる。
勇んでいる時こそ、あえて臆病になって、周りを観察しなければならないのだ。
信春は続けて「槍の穂先が上がっているのは弱い敵、下がっているのは強い敵」
などと実戦に即したアドバイスも送っている。
そんな信春も若い頃は、諏訪大社で
「恥ずかしいことだが、戦が怖くて仕方ないのです」と告白する一面も見せている。
信玄の死後は、勝頼傘下で「長篠の戦い」に参加。
武田軍の不利を見抜き撤退を進言するも、勝頼は受け入れない。
敗戦後、逃げ去る勝頼を見送ると、
ここを死に場所と定めた”不死身の鬼”は織田軍に突撃し、壮絶に果てた。
死後もその武勇は敵味方に賞賛され、「武田四天王」のひとりに数えられている。


『死なんと思えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり』
・・・上杉謙信・・・


”越後の龍”、”聖将”、”軍神”。
その天才的な戦術眼から、数多くの異名を持つ戦国最強の将・上杉謙信。
1530年越後守護代・長尾為景の子として生まれ、
家督を継ぐと越後(新潟県)を統一。
領土野心を持たず、他国の秩序維持のために出兵し、数多くの合戦で勝利を収めた。
最大のライバル・武田信玄とは5度にわたって「川中島の戦い」を繰り広げた。
謙信の凄みは、その決断の潔さにある。
1561年、激戦となった4度目の「川中島の戦い」で、
謙信は侍大将を務め、あらゆる戦術を評価。
なかでも優れた策から上・中・下と分けた後、あっさりと下策を採用した。
戦上手の信玄のこと、上策は既に見破られているというのだ。
下策は川中島を踏み超え妻女山に陣を張り、
信玄の裏をかいて一撃するという危険な策だったが、
謙信は「叶わずば、潔く死ぬだけ。」と言い捨てた。
結局、この戦いで武田軍は総崩れとなり、
信玄は副将で弟の信繁ら、貴重な人材を失うことになった。
その謙信が、春日山城の壁に書いた戦争哲学が、これだ。
自らを軍神・毘沙門天の生まれ変わりと称する謙信の前にあっては、
あの織田信長ですら「案外弱い」と評される始末。
好敵手だった信玄と北条氏康は、死に際して
「自分の死後は謙信を頼ると良い」と言い残している。

『戦は、拳を敵の胸に突き刺すくらいの覚悟でするものだ』
・・・蒲生氏郷・・・

蒲生氏郷は1556年、近江(滋賀県)生まれ。
父・賢秀は、六角氏の重臣だったが、その没落後は信長に仕え、
忠誠の証に13歳の息子・氏郷を人質に差し出した。
「爛々と輝く眼。こいつは普通じゃない!」
信長は一目で氏郷の才覚を見抜く。
氏郷が14歳の初陣で勝利すると、自分の12歳になる娘・冬姫を
彼の妻として与える寵愛ぶりだ。
信長の死後、秀吉に高く評価されていた氏郷は
「小牧・長久手の戦い」や小田原征伐などで活躍した。
当時の戦争は、長槍などリーチの長い武器でお互いに牽制し合いながら
戦うことが多かったが、氏郷は自分の親衛隊に1尺9寸の脇差を使わせていた。
氏郷は、この言葉を交えて意図を説明した。
「敵の本陣に斬り込めば、強者ぞろいと心得よ。長い武器など打ち払われる。
戦は短剣もろとも、自分の拳を敵の胸に突き刺し、貫く覚悟ですべし。」
ある新参の家来には「合戦で功名を挙げたくば、
先陣を切る鯰尾兜の男についていけ。」と言った。
家来が必死で鯰尾兜の男に追いつくと、なんと、氏郷本人だったという。
後年、秀吉の命で、伊達政宗への抑えとして会津に転封された時には、
知行を家臣に与え過ぎて自分の分が足りない、
という嘘のような出来事も起きている。
将来を嘱望された通称「麒麟児」こと氏郷だったが、
惜しまれつつ、病気によって40歳の生涯を終えた。

 

『私の奇声は、会心の声である』
・・・池田輝政・・・

池田輝政は、1565年池田恒興の子として生まれる。
初陣は、黒田官兵衛が捕まったことで有名な荒木村重攻め。
ここで武功をあげ、華々しいスタートを切ったものの、
信長の死後、秀吉のもと従軍した「小牧・長久手の戦い」では悲劇が襲いかかる。
父と兄が相次いで戦死してしまったのだ。
「ならば自分も」と敵陣に突入を試みるが、
家臣が馬の口を抑え込み、なんとか押しとどめた。
他にも悔しい体験が多い。
背の低さで侮られ、また徳川家康の娘をめとったことで
福島正則に「我らは槍で国を獲ったが、お主は下半身で獲った」と揶揄された。
ある時、姫路城の輝政の居室から凄まじい奇声が飛んだ。
近臣が駆けつけてみると、輝政は照れながらこの言葉を伝えた。
「奇声をあげたのは、仕事がうまくいったからだ。
この乱世を生きるなかで、色々なことがあった。
今もって家臣も俺も、大したもんだ、と嬉しく思ったのだ。」
その後、姫路城から奇声が響くたび家臣たちは、
また仕事がはかどったのだな、と安心した。
この城は、輝政が8年がかりで築いた壮麗なもの。
現在、国宝・重要文化財で、世界遺産にも登録されている。
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