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『戦場で腰が抜ける男は、100人のうち、だいたい2人』
・・・長宗我部元親・・・

四国の覇者・長宗我部元親は、1539年生まれ。
織田信長が中央を制圧している間に、四国全土を手中にした人物である。
この言葉は、長い戦いの日々を送った元親一流の経験則から出た言葉だが、
実は彼、若い頃は「姫若子」などと呼ばれ、馬鹿にされていた。
背が高く色白で、外に出たがらず、しかも物腰が女子のようであったことから、
家臣からは将来を心配されていた。
優しく繊細な元親は、あるとき坊主に
「臆病とは性格ではなく、胸の病だ」と諭されると、
「なるほど病なら、必要な手当てをすれば必ず克服できるぞ」
と自らを奮い立たせた。初陣は22歳と、当時としては遅い部類。
ところが、この戦いで家中の評価は一変する。
槍の持ち方も知らず、家臣に
「敵の目を突かれよ。無理な場合は目を突く心持ちで突かれよ!」
とアドバイスを受けると突如として敵に突撃し、
襲いかかる敵を激しい槍さばきで打ち倒したのだ。さらに、
「俺は絶対に一歩も引かぬっ!真の武士は命より、名を惜しむものぞ!」
と大声をあげた。
これには敵はもちろん、味方も驚愕した。
元親は見事この激戦を制し、
四国の王への階段を一気に駆け上っていくことになる。
 
2016年03月06日 18:14 |コメント|

『大変困難な戦いなら、非常識な手段で戦ってこそ勝ち目をだせる!』
・・・高坂昌信・・・

武田四天王のひとり、高坂昌信は1527年生まれ。
小姓として武田信玄に寵愛され、「俺が本当に寝たいのはお前だけ」と
熱いラブレターを送られる程の美貌の持ち主だった。
見てくれだけでなく、才知も一流で、
甲州流軍学の書『甲陽軍艦』の原作者は、昌信だとされている。
二つ名は「逃げ弾正」だが、これは逃げ足が速いというよりは、
むしろ無用な戦いを避ける能力を示している。
信玄が死ぬと、息子の勝頼が跡を継いだ。勝頼は父親の遺言を守らず、
猛烈に攻めまくり、織田家の18の城を次々と撃破。
やがて信玄も落とせなかった要害・高天神城を手中に収めると、
勝頼は勝利の大宴会を開いた。これが油断となったのか、
高天神城を開城した翌年の1575年、勝頼は「長篠の戦い」で
信長・家康連合軍を相手に大惨敗を喫する。
参戦しなかった昌信は、戦後、本体の戦術を知って驚愕した。
勝頼は大軍を相手に、小部隊を代わる代わる突撃させ、鉄砲で各個撃破されていたのだ。
昌信はこの言葉で、勝頼を強く諭した。
「大敵が相手なら、全軍一致で大きく突撃すべき。
無二無三に攻め、前の列が撃ち倒されても、友の死体を踏み越え、
相手の陣地に雪崩込む。さすれば武田軍の必勝であった。惜しい」
それから3年後、昌信は武田家滅亡を目の当たりにすることなく、52歳であの世に逃げた。
2016年03月06日 18:13 |コメント|

『主人は無理を言うなるものと知れ』
・・・豊臣秀吉(天下人)・・・

貧しい身分から織田信長の家臣となり、ライバルとの競争を勝ち抜き、
公家最高位の関白の位まで射止め、世の繁栄を極めた豊臣秀吉。
これほどの立身出世は、日本史上類を見ない。
秀吉は1537年、尾張(愛知県)生まれ。
”人たらし”と呼ばれる程、人間的魅力に溢れており、派手好きな性格だった。
天下を制すると、ピカピカに光り輝く黄金の茶室で諸大名を驚かせ、
国内でいち早くヴァイオリンの演奏会に出席するなど、
弾ける好奇心と景気の良さは、死後も語り継がれた。
例えば、1589年、莫大な金銀財宝を集めた秀吉は、並みいる大名を前に、
金をバラ撒いた。総額なんと36万5000両。(292億円相当)
家康に金銀合わせ約1万両、前田利家・毛利元就・上杉景勝らに2万両。
弟に2万両。甥の秀次には銀1万両と大盤振舞いだ。
この言葉は、秀吉が日頃から近臣に語っていた処世術のひとつ。
なるほど秀吉は、信長のいかなる”無茶ぶり”にも全身全霊で応じてきた。
美濃(岐阜県)征伐での大役、「金ヶ崎の退き口」でのしんがり、
強敵・毛利と対峙した中国征伐。
あらゆる「無理」を掻い潜ってきたから、秀吉の天下があるのだ。
1596年、7月夜、秀吉の居城・伏見城を直下型大地震が急襲した。
天守閣は淀川へ崩れ落ち、御殿は潰れてしまった。
 
さしもの秀吉も弱気な一言。
「新しい伏見城は、地震のない所に建てさせよう・・・」
 
世の頂点を極めた天下人といえども、所詮は「天」の「下」。
最後まで主人に無理を言われ続けたのだった。
2016年03月06日 18:10 |コメント|

『威勢がよく勇気ある者は、驚くような働きをする。が、・・・』
・・・加藤嘉明・・・

加藤嘉明は1563年生まれ。ドン底から40万石を手に入れた実力派武将である。
松平家家臣の子として生まれるものの、後に父が離反。
放浪生活を余儀なくされ、馬の仲買人の下働きをするなどして生き抜いた。
秀吉がその才能を見込んで家来にすると、見事にチャンスをつかみ
「賤ヶ岳の戦い」で七本槍の一人となる武功をあげた。
もともと陸戦を得意としていた嘉明は淡路国(兵庫県・淡路島)を手に入れてからは
海上戦にも力を発揮し、朝鮮出兵では、朝鮮水軍を壊滅させる活躍をみせた。
そんな嘉明が、日頃から部下に話していた言葉がこれだ。
「威勢がよく勇気ある者は、驚くような働きをする。が、ただそれだけのこと。
本当の武功を立てるのは、律儀で誠実な者である。」
彼は、決して身勝手な蛮勇を認めない。
「夜討ちの大将」を自称していた豪傑の家臣・塙団右衛門は、
嘉明に叱責され、たまらず加藤家を飛び出している。
また、人に媚びたり、ゴマをする人間も徹底的に避けた。
そのような人物は、一時は抜群の成果を挙げるかもしれないが、
決して信用するなという。
なぜなら、自分の利益を得るために必ず人を裏切るのが、この手の武将だからだ。
嘉明は、同じく秀吉に可愛がられていた石田三成とはソリが合わず
「関ヶ原の戦い」では徳川家康についた。
これが慧眼であり、嘉明は三代将軍・家光の時代まで生き残り、
ついには会津(福島県)40万石を手中に収めたのだ。
 
2016年02月21日 21:12 |コメント|

『刀剣短くば、一歩進めて長くすべし』
・・・柳生宗矩・・・

柳生宗矩は、1571年生まれ。柳生新陰流の開祖・宗厳の子である。
徳川将軍家の兵法指南役として知られ、「大坂夏の陣」では
徳川秀忠を襲った豊臣方の武者7人を、瞬時に斬り倒したという逸話が残っている。
とはいえ、宗矩が人を斬るのは珍しいこと。
人を生かす正しい剣、いわゆる「活人剣」を志向したからだ。
宗矩が「兵法家伝書」の中で残しているのが、この言葉だ。
意味は「手にする武器が劣っているなら、身体を工夫して補えば良い」ということ。
刀に頼るばかりではなく、政略にも長けた宗矩らしい実践例も残っている。
大剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)が、天下一と謳われた宗矩に勝負を挑んできた時のこと。
卜伝は奥に案内されたものの、誰もいない。
それでも待っていると、突然襖が開け放たれ、宗矩が木刀で打ちかかってきた。
卜伝は瞬時に刀の柄で跳ね返すと「ふざけるな!」と宗矩をなじる。
宗矩は言う。
「卜伝殿。まだ修行が足りませんぞ。
もし私をここで倒しても、当家のものが無傷で帰すとは思えません。
死んで天下一と言われても、どうにもなりますまい。」
この時宗矩は木刀という劣った武器で、天下一を狙う卜伝を戦わずして屈服させた。
宗矩は続ける。
「術はお見事。だが、大切なのは心法。それが何とも惜しい」と。
2016年02月21日 21:02 |コメント|

『掟は少ないほどよい』
・・・北条氏康・・・

北条氏康は、1515年生まれ。下克上の代名詞ともいえる活躍で、
関東に覇を唱えた早雲は、祖父にあたる。
この三代目の治世で後北条氏の隆盛は頂点に達した。
氏康は関東を狙う武田信玄、上杉謙信ら戦国の英雄達にもひけをとらない人物だ。
敵が押し寄せても、自慢の小田原城で何度も跳ね返してみせた。
戦闘が始まれば決して退かず、体中に刀傷があったが、
背中にはただの一つもなかったというから驚きである。
織田信長の「桶狭間の戦い」、毛利元就の「厳島の戦い」と並んで
「戦国三大奇襲」のひとつに数えられる「河越夜戦」では前線に立って戦い
山内上杉・扇谷上杉・足利古河公方の連合軍8万を、8千で破る大金星をあげた。
ある日、氏康が小田原の城下町を歩いていると、やけに掟を書いた立て札が目立つ。
家臣に尋ねると、悪人が増えているから取り締まりを強化しているという。
すると氏康は、すかさずこの言葉を返した。大きな考え違いであると叱ったのだ。
「民が満たされていない証拠である。
不満のはけ口がないから、悪事に走るのだ。
掟を次々に増やして、なんになる。
悪人のせいにするのではなく、自分たちの政治に至らない点はないのか、
常に自問自答するべきであり、それが人の上に立つ者の心得である」
 
豊臣秀吉が天下統一をするまで、
関東が一貫して北条氏のものだったのも頷けるエピソードである。
 
2016年02月11日 10:17 |コメント|

『武士は剛勇だけでは駄目だ。臆病で味付けする必要がある。』
・・・馬場信春・・・

馬場信春は1514年生まれの武田家家臣。
信虎、信玄、勝頼と実に3代にわたって武田家を支えた功臣である。
歴史に残る「川中島の戦い」では、妻女山から上杉謙信を急襲し、
「三方ヶ原の戦い」では徳川家康を浜松城に追い詰めるなど、出陣すれば連戦連勝。
数々の激戦に参陣しながら手傷ひとつ負わなかった。
その”不死身の鬼”が、若武者たちに戦を勝ち抜く秘訣を問われ語った言葉がこれだ。
千変万化する戦場では、素早い判断が求められる。
勇んでいる時こそ、あえて臆病になって、周りを観察しなければならないのだ。
信春は続けて「槍の穂先が上がっているのは弱い敵、下がっているのは強い敵」
などと実戦に即したアドバイスも送っている。
そんな信春も若い頃は、諏訪大社で
「恥ずかしいことだが、戦が怖くて仕方ないのです」と告白する一面も見せている。
信玄の死後は、勝頼傘下で「長篠の戦い」に参加。
武田軍の不利を見抜き撤退を進言するも、勝頼は受け入れない。
敗戦後、逃げ去る勝頼を見送ると、
ここを死に場所と定めた”不死身の鬼”は織田軍に突撃し、壮絶に果てた。
死後もその武勇は敵味方に賞賛され、「武田四天王」のひとりに数えられている。
2016年02月11日 10:14 |コメント|


『死なんと思えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり』
・・・上杉謙信・・・


”越後の龍”、”聖将”、”軍神”。
その天才的な戦術眼から、数多くの異名を持つ戦国最強の将・上杉謙信。
1530年越後守護代・長尾為景の子として生まれ、
家督を継ぐと越後(新潟県)を統一。
領土野心を持たず、他国の秩序維持のために出兵し、数多くの合戦で勝利を収めた。
最大のライバル・武田信玄とは5度にわたって「川中島の戦い」を繰り広げた。
謙信の凄みは、その決断の潔さにある。
1561年、激戦となった4度目の「川中島の戦い」で、
謙信は侍大将を務め、あらゆる戦術を評価。
なかでも優れた策から上・中・下と分けた後、あっさりと下策を採用した。
戦上手の信玄のこと、上策は既に見破られているというのだ。
下策は川中島を踏み超え妻女山に陣を張り、
信玄の裏をかいて一撃するという危険な策だったが、
謙信は「叶わずば、潔く死ぬだけ。」と言い捨てた。
結局、この戦いで武田軍は総崩れとなり、
信玄は副将で弟の信繁ら、貴重な人材を失うことになった。
その謙信が、春日山城の壁に書いた戦争哲学が、これだ。
自らを軍神・毘沙門天の生まれ変わりと称する謙信の前にあっては、
あの織田信長ですら「案外弱い」と評される始末。
好敵手だった信玄と北条氏康は、死に際して
「自分の死後は謙信を頼ると良い」と言い残している。
2016年01月09日 17:41 |コメント|

『戦は、拳を敵の胸に突き刺すくらいの覚悟でするものだ』
・・・蒲生氏郷・・・

蒲生氏郷は1556年、近江(滋賀県)生まれ。
父・賢秀は、六角氏の重臣だったが、その没落後は信長に仕え、
忠誠の証に13歳の息子・氏郷を人質に差し出した。
「爛々と輝く眼。こいつは普通じゃない!」
信長は一目で氏郷の才覚を見抜く。
氏郷が14歳の初陣で勝利すると、自分の12歳になる娘・冬姫を
彼の妻として与える寵愛ぶりだ。
信長の死後、秀吉に高く評価されていた氏郷は
「小牧・長久手の戦い」や小田原征伐などで活躍した。
当時の戦争は、長槍などリーチの長い武器でお互いに牽制し合いながら
戦うことが多かったが、氏郷は自分の親衛隊に1尺9寸の脇差を使わせていた。
氏郷は、この言葉を交えて意図を説明した。
「敵の本陣に斬り込めば、強者ぞろいと心得よ。長い武器など打ち払われる。
戦は短剣もろとも、自分の拳を敵の胸に突き刺し、貫く覚悟ですべし。」
ある新参の家来には「合戦で功名を挙げたくば、
先陣を切る鯰尾兜の男についていけ。」と言った。
家来が必死で鯰尾兜の男に追いつくと、なんと、氏郷本人だったという。
後年、秀吉の命で、伊達政宗への抑えとして会津に転封された時には、
知行を家臣に与え過ぎて自分の分が足りない、
という嘘のような出来事も起きている。
将来を嘱望された通称「麒麟児」こと氏郷だったが、
惜しまれつつ、病気によって40歳の生涯を終えた。

 

2016年01月09日 17:39 |コメント|

『私の奇声は、会心の声である』
・・・池田輝政・・・

池田輝政は、1565年池田恒興の子として生まれる。
初陣は、黒田官兵衛が捕まったことで有名な荒木村重攻め。
ここで武功をあげ、華々しいスタートを切ったものの、
信長の死後、秀吉のもと従軍した「小牧・長久手の戦い」では悲劇が襲いかかる。
父と兄が相次いで戦死してしまったのだ。
「ならば自分も」と敵陣に突入を試みるが、
家臣が馬の口を抑え込み、なんとか押しとどめた。
他にも悔しい体験が多い。
背の低さで侮られ、また徳川家康の娘をめとったことで
福島正則に「我らは槍で国を獲ったが、お主は下半身で獲った」と揶揄された。
ある時、姫路城の輝政の居室から凄まじい奇声が飛んだ。
近臣が駆けつけてみると、輝政は照れながらこの言葉を伝えた。
「奇声をあげたのは、仕事がうまくいったからだ。
この乱世を生きるなかで、色々なことがあった。
今もって家臣も俺も、大したもんだ、と嬉しく思ったのだ。」
その後、姫路城から奇声が響くたび家臣たちは、
また仕事がはかどったのだな、と安心した。
この城は、輝政が8年がかりで築いた壮麗なもの。
現在、国宝・重要文化財で、世界遺産にも登録されている。
2016年01月09日 12:26 |コメント|
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